F1グランプリの欠かせない存在 歴代フェラーリF1を振り返る
2016/02/18
里ちゅーん
2015/07/22 更新
皇帝ミカエル・シューマッハの名前はF1に詳しくなくても聞いたことがあるだろう。未だに破られないF1史上最高の記録を残した伝説のドライバーはどのような家庭に生まれ、どのように成功したのか。あまり知られていなかったシューマッハの生き様とその栄光と苦悩について紹介
ミハエル・シューマッハ
1969年1月3日生まれ(45歳)身長 174cm体重 68kg国籍 ドイツ出身 ドイツ・フルト
F1ドライバーの家は「お金持ち」のイメージがあるが、シューマッハの家は決してお金持ちではなかった。レンガ職人だった父がミハエルの4歳の時に四輪自転車にエンジンを付けて改造したものをプレゼントをするが、ミハエルはそれで電柱にぶつかる事故をしてしまう。そこで心配した父がミハエルを地元のカート場に連れて行き、カートクラブに入門することになる。6歳の時、最年少でカートクラブのチャンピオンになるが、当時使用していたゴーカートは父親が処分されたカートの部品を集めて組み立てたものだった。シューマッハの家庭は出費のかさむこのスポーツを継続できるほど経済的に豊かではなく、他人が使い古したタイヤを拾ってきて使うことが多かったという。その後、ミハエルのカートレースを支えるために、父はカート場の管理人とレンタルカート屋で働き、母カートレース場の軽食スタンドで働くが、当時ミハエルが必要としていた800DM(約400ユーロ)の新しいエンジンも賄えないほどだった。
シューマッハに詰め寄るアイルトン・セナ
アイルトン・セナはF1ドライバーとしては1世代前だが、2人は4シーズンを共に競い合った。互いに進路妨害・接触事故が何回かあり、故意だったとされ両者の間に確執が生まれた。神経質なセナとシューマッハは決して仲の良い関係ではなかった。メディアの前でセナがシューマッハに詰め寄ることもあったほどだ。
サンマリノGPでのセナのクラッシュ
シューマッハは若手のF1ドライバーとしてどんどん頭角をあらわし、セナの新たなライバルとして注目され始めていた。しかし1994年サンマリノGPでそのライバル アイルトン・セナがクラッシュし、死亡してしまう。セナがクラッシュした時、首位のセナに対して2番手を走っていたのはシューマッハだった。シューマッハは目標であり、ライバルであったセナの死を目の当たりにした。シューマッハはセナの葬儀には参列しなかった。その理由を「公の場で悲しむ姿を見せたくなかった、だってメディアは僕の涙を期待していたから」と語っている。後にシューマッハはブラジルのセナの墓に妻のコリーナと共に訪れている。
F1 1994年シリーズのチャンピオンとなるシューマッハ
結局シューマッハは1994年のセナが死んだシリーズに初のF1チャンピオンになったものの、会見では「このシーズンのチャンピオンはセナだ。このタイトルはセナに寄贈したい」と発言した。その後、1996年にベネトンからフェラーリに移籍、「勝つためにはなんでもする」信念を貫きタイトルを勝ち取っていく。
セナと並び泣き崩れるシューマッハ
セナの死亡事故から6年後の2000年に生涯通算41勝でセナの記録と並んだ。会見でジャーナリストにセナの事を質問されシューマッハは泣き崩れてしまう。セナの死によってF1チャンピオンになったのではないことを証明できたことでの涙だったのだろう。セナを超えることで晴れてシューマッハは真のF1チャンピオンとになることができたのだ。シューマッハは「F1界の皇帝」として活躍、F1の記録の多くを塗り替えることになる。F1ドライバーとして伝説となったシューマッハ。F1公式サイトは彼を「モータースポーツ史上最も偉大なドライバー」と賞賛している。
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