2016/03/12
bruklyn
2016/02/28 更新
日本の自動車業界をリードし続ける企業のひとつに、ホンダがある。その歴史を紐解けば、常にモータースポーツがあった。ホンダと切っても切れない関係、それがモータースポーツなのだ。ここでは、ホンダのDNAと言っても過言ではないモータースポーツの歴史を振り返っていこう。
1906年(明治39年)、現在の浜松市に生を受けた本田宗一郎は1922年(大正11年)に上京。自動車修理工場である「アート商会」に入社。宗一郎は少年時代より何にでも興味を示し、特に大空への憧れは人一倍強かった。学校をサボり、曲芸飛行を見に行ったほどだ。そんな彼が次に興味を持ったのは「自動車」であった。彼は人一倍働き、自動車の技術を習得していった。
1924年(大正13年)、ある転機が訪れる。アート商会の主人であった榊原郁三と共に自製のレーシングマシンを造り上げたのである。その名は「カーチス号」。ミッチェル製のシャシーに、カーチス・ジェニーと呼ばれる複葉機のV8エンジンを搭載。宗一郎は郁三の弟である真一と共に、同年開催された自動車競技会に出場、見事優勝を果たす。この時から既に、宗一郎の胸にはある野望が芽生えていた。「自分の造ったマシンで、モータースポーツの世界を制する」と。
悪夢のような第二次大戦が終わって間もなく、宗一郎は浜松に「本田技術研究所」を設立する。その後会社は拡大路線を辿るが、まだまだ中小企業のひとつに過ぎなかった。
そんな中、宗一郎は「奇策」とも言える宣言を発表する。これが有名な「マン島TTレース出場宣言」である。1953年(昭和28年)のことだった。社内からは「無謀だ」という声も上がったが、そこは宗一郎。やりもしないで、何が分かる!と、社員に檄を飛ばした。
当時の二輪世界最高峰モータースポーツ、それがマン島TTレースである。そこに東洋の小さな島国が送り出したマシンは、まるでよく出来た腕時計のように緻密なエンジンであった。しかし、エンジンの性能だけで勝てるほどモータースポーツの世界は甘くはない。事実、ホンダは参戦初年度、このレースに惨敗。苦汁をなめることとなる。
だがホンダの、いや宗一郎のモータースポーツ勝利への執念は凄まじいものがあった。迎えた1961年(昭和36年)、ホンダは125ccクラス、そして250ccクラスでついに優勝を果たす。初参戦から3年、そしてあの「宣言」から7年を経て掴んだ初の世界最高峰モータースポーツでの勝利であった。
マン島制覇の余韻も冷めやらぬ1964年(昭和39年)、ホンダは四輪モータースポーツの最高峰、F1への参戦を開始する。当初はロータスとのジョイントで参戦する予定であったが、結局ホンダは自前のシャシーとエンジンで参戦する道を選択した。これがいわゆる、ホンダのF1参戦第一期活動のスタートであった。
ホンダのF1初優勝は、意外にも早くもたらされた。1965年(昭和40年)、メキシコGP。ホンダRA272改をドライブしたリッチー・ギンサーによるものだった。二輪、四輪両方のモータースポーツで世界を制したホンダ。当時監督を務めていた中村良夫は、メキシコより電報でユリウス・カエサルの名言を用い、東京のホンダ本社に電報を送った。
「Veni, Vidi, Vici(来た、見た、勝った)」と。
1968年(昭和43年)、ホンダはF1から一時撤退。しかし1983年(昭和58年)、ホンダは再びこの世界最高峰の四輪モータースポーツへの復活を果たす。
そこからのホンダの快進撃は、凄まじいものがあった。1988年(昭和63年)には、アイルトン・セナとアラン・プロストのドライブによるマクラーレンホンダ・MP4/4で16戦中15勝という大記録を打ち立てた。その後1992年(平成4年)に撤退するまで、ホンダエンジンの奏でるエンジン音はいつしか「ホンダミュージック」と名付けられ、モータースポーツファンの心を魅了した。
2000年(平成12年)、ホンダは第三期F1活動をスタートさせる。しかし、第二期のような勢いは、もはやなかった。このモータースポーツは、少しでもブランクがあると致命的だ。技術革新のスピードが、他のモータースポーツと比べあまりにも速いのである。結局第三期の勝利は、2006年(平成18年)のハンガリーGPでの一勝にとどまった。それはモータースポーツをDNAとするホンダが味わった、初の屈辱であった。
2008年(平成20年)、ホンダは第三期F1活動を終えた。しかし宗一郎の代から脈々と流れるモータースポーツへのスピリットは、途絶えることはなかったのだ。
2015(平成27年)、ホンダ、F1復帰。再びモータースポーツの檜舞台への挑戦である。参戦初年度は思うような戦いができなかったが、先ごろ発表された人事刷新などにより、今シーズンは戦闘力のあるチームになっていることを心から期待したい。
ここで、少し変わったモータースポーツを紹介したい。それが「ホンダ・エコマイレッジチャレンジ」である。普通はモータースポーツと言うと速さやタイムで競われるのが一般的だが、このモータースポーツはそうしたもので競うものではない。
それでは何を競うモータースポーツかというと、ズバリ「燃費」である。1リッターのガソリンで、どれだけ遠くまで走れるか。実に単純明快だが、これもいかにもホンダらしいモータースポーツと言えるのではないだろうか。
ホンダのDNAであるモータースポーツ。それは何よりもモータースポーツを愛した、宗一郎の生き方そのものである。そのスピリットが今ホンダで働く社員に息づいている限り、ホンダはこれからも様々なモータースポーツにチャレンジし続けるだろう。
ホンダの存在理由、それこそがモータースポーツなのだ。
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